友達の友達は友達じゃないかもしれないけど、敵の友達は敵だったりする

 大好きな友達(仮にA)がいて、そいつが凄く大切にしている友達(仮にB)がいるとする。 Bと僕が友達になれるとは限らない。 共有しているものが違うし、大好きなAと凄く仲がいいという事実に、大なり小なりの嫉妬を覚える可能性があるからだ。 僕の方がAと仲がいい、Bなんかより僕の方が、僕の方が!って感情が少しでも混じると、友情の成立は難しい。

 や、後付けならいいんだろうけど、初見の先入観に嫉妬って感情は宜しくねえよなあ、ってこと。

 

 大嫌いな友達(仮にC)がいて、そいつが凄く大切にしている友達(仮にD)がいるとする。 Dと僕はまず間違いなく友達になれない。 共有しているものは違うはずなのに、大嫌いなCと凄く仲がいいという事実に、大なり小なりの共通点を連想するからだ。 Cと仲良く出来るってことはどうせDも同じようなクソ野郎、仮に違ってもCと仲良く出来るような節穴野郎、盲目野郎と友情なんて!って感情が過大に押し寄せてくれば、友情の成立は難しい。

 や、後付けならいいんだろうけど、初見の先入観に嫌悪チームって認識は宜しくねえよなあ、ってこと。

 

 つまり、負の感情ってのは大概をねじ伏せるんだよなあ。 実際話せば、印象と実物の乖離は解消されるんだけど、それまでは過去の経験が構築するフィルター越しでしか見れない。 情報が無いから当たり前だけど。

 ずっと話に出し続けてる魔女界隈なんて最も悲惨。 最初の頃は魔女が大好きだったから仲良い全員が嫉妬対象、今は魔女を気持ち悪いと思ってるから仲良い全員が汚物を囲ってる異常者。 話したことある人もない人も、全員が魔女の黒い印象に押し潰されている。

 結果、リア友以外の界隈メンバー全員が気持ち悪くなってしまい、少し前まで抱いていた徒党への羨望はどこかへ霧散してしまう。 どっかの宗教団体に向けるような目で見やってしまうんだ。 まあ、これが悪い事とも、誤認識とも、当人は思ってないんだけどね。

 だから良く言われている“腐ったミカン云々”は、理に適っていると思うんだ。 腐敗物の周囲が実際に腐るのではなく、周囲の目線が腐ったモノに対するそれに変わるという意味では。 そして偉い人は、友達は選びなさい、としたり顔と仰るのです。 腐ったモノの仲間だと思われたくなければ、友達は選びなさい、と。 理に適っている。 集団心理である以上、是正することも出来ないから、自分で対応するしかないんだよなー。

 

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 直接親しい友達が腐っている“ように見える”のなら、人の目なんざ知らねえと一蹴してしまえば宜しい。 でも苦手な人や、周囲が印象過多な人が腐っている“ように見える”のであれば、やっぱり友好を紡ぐのに抵抗が出てしまう。 だから八方美人は嫌いなんだ、清濁飲み込んでにへらにへらしやがって。 全ての人間と真に仲良くなれるワケねえだろ、おべっか使いのマスクマンめ。 ろ過もせずに量だけを追い求める輩には、誰でもいいんだな、って言葉しか思い浮かばないよ。 事実、そうなんだろうしね。

 気にくわないヤツは片っ端からKickする、少数精鋭が僕は好き。 ギリギリkickのあの空間が、ひりついて殺伐としたあの空間が、今の僕にとってのベストであり、マストなんだと思う。 懐古主義と言われてもいい。 僕が戻りたいのは2ヶ月前の魔女喪失時ではなく、何もかもが始まった9年前なんだなあ。 今更気付いても、あとの祭り。

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