独り言だの備忘録だのと宣ったところで、ネット上に垂れ流す日記は第三者ありきの表現である。 そうならないように意識して執筆していても、周りからすれば僕の主義主張である。
そしてそれは、コメントやRT、いいね!ですら該当する。 誰かの記事を見て、つぶやきを見て、何かを発すれば表現に他ならない。 ただの同意であっても「私はこれがいいと思う」と不特定多数に意思表示したことになり、「私はこれがいいと思ってますよ」と発言主に同意を伝えたことになる。
Twitterで流れてくる泣ける話系RTを見て「どうせフィクションだろ創作乙」と思ったり、Facebookに上げられる水着写真を見て豪快にオナニーしたり、何かしらの悲劇があった日に皆が黙祷を捧げている最中、最近陰毛が良く抜けるなあ・・・ってボリボリ股間弄ってても、頭の中で終始したり、誰にも知られないアクションを起こすだけなら、そこに表現という状況は発生しない。
発生しないだけで、心は常に謳ってる。 右翼やら左翼やら、アイスバケツチャレンジやらトリコロールカラーやら、結婚やら離婚やら、難しい問題ですねって先送りにして、実際の思考には到ってなくても、心はいつだって謳ってる。 感じないワケがない。 無関心を貫けるワケがない。 でも、難しい問題ですねって先送りにしてるから、表現には到らないんだ。 伝えるには、到らないんだ。
そもそも伝える必要って、どこにあるんだろう? 伝える方法としてデモやストライキを伴い、激烈に他人とぶつかっている人たちは、その先に表現の達成=意見の承認を目指してるんだろうけど、ご近所さまと政治について激論したり、笑顔の写真でフランス国旗追悼~とかやってる人は、その感情を伝えて何がしたいんだろう。 世界の変革を成したり、遺族の無念を晴らすことが、出来るとでも思っているのだろうか。 したいと思ってるのだろうか。
責任も行動も伴わない表現だけで、世界を変えようなんておこがましい人たちが溢れ返っている世の中だ。 責任と行動を伴ったとしたって、世界を変えようなんておこがましさ、よくぞ持ちうることが出来るもんだ。 自分の考えが正しい、世の人間は追随すべきだ、なんて心底思えるんだとしたら、正否はともかく絶対に友達にはなりたくないタイプ。 正論だけの世界なんて息苦しくて仕方ないもんね。
大体、本当に世界を変えたいと思うなら。 例えば僕ならきっと政治家を目指すだろう。 政治家が世界を変えるなんて毛頭思っちゃいないけど、数万人規模のデモを起こしたり、数十万人のフォロワーを従えるより、1億人近い国民に選ばれて挑む国会の方が理に適っている気がするから。 屁理屈や論点のすり替えを繰り返して近道を気取り、コメンテーター感覚で世界を斜に穿つだけの自分なんて吐き気がするもの。
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表現なんて、自分のごくごく親しい人にだけ伝えられたらいい。 それも不特定多数の人間が左右される世論的なアレじゃなく、チラリズムってどうよ、興奮するべ!?とか、自業自得でウン十万すっ飛んだ、笑っちまうべ!?とか、ここに僕のちんちんがあります、しゃぶっちまうべ!?とか、ごくごく身近なことを、ごくごく他愛なく伝えていけたら、伝い合っていけたら、それでいいじゃない。
声を上げると言うことは、少なからず声を聞いた人たちに影響を与えると言うこと。 誰かを扇動するということは、彼らの人生を歪める可能性を放つと言うこと。 撃たれる覚悟もないのに、銃を突き付けられない。 撃てないから撃たないでくれ、なんて丸腰論を推し進めるワケでもない。 銃は常に懐に、自らの身が危うくなった時の自衛として所持し続ける。 それでいいじゃない。
なんてことも書かずに思ってるだけならいいのに、書いてしまう僕は結局表現したがりで、自己承認の欲しがりで、ここに僕のちんちんがあります、しゃぶっちまうべ!?(しゃぶられる覚悟は・・・あるッ!)
