シュレディンガーの言論

 言葉にしないと想いは伝わらない。

 言葉にしたものが想いとは限らない。

 

 曰く、過去の経験や印象、素振りや表情などで真偽は判断される。 しかし、厳密に言うなれば、真偽なんてモノは常にフィフティーフィフティーなのだ。

 例えば僕が「セックスしたい」と発言したとして、本当に「セックスしたい」のかどうかはフィフティーフィフティーである。 僕の過去の言動や、言い方、人間性などを突き詰めていけば、真偽の程など簡単にわかりそうなものだけど、字面だけ見れば、嘘と誠の確率は同等だ。

 統計論や確率論なんて、現実の前には容易く崩壊する。 『誰が』『どう見ても』ガチでセックスしたがっているように見えたって、『僕が』『心底』違うと思っていれば、答えは偽ということになる。 たまたま賢者モードだったのかもしれないし、女に手酷いトラウマを植え付けられた直後なのかもしれない。 何にしろ、真実は当人の胸の中にしか存在しないのだ。

 そんなの嘘だ、有り得ない、と言ったって、その本人が違うと言えば、違うと判断せざるを得ない。 その違うという言葉自体が嘘だとしても、嘘かどうかを真に見破ることは、本人以外には適わない。 嘘だと決めつけたり、思い込むことはいくらでも出来るし、嘘だと本人に無理矢理言わせることも可能だろうが、以下同上。 真実を真実として知れるのは観測者のみで、如何に観察力に長けていようと、観測していない人間が想う答えは、どうやったって真実には辿り着けないのだ。 真実と同じ回答を言い当てたとしてもだ。

 

 真実の“箱”を開けられない人間が何を言っても妄想の域を出ない。 筋道や証拠を並べ立て、どうやったってこの事実が真実以外に有り得ない、とまくし立てたって、現実は小説よりも奇である。 それを理解せず、あるいは誤魔化そうと、いっぱしの論理でシュレディンガーの猫の生死を言い当てる凡夫の何と多いことか。

 勿論、真実だけで世界を構築することは出来ないから、想像の紐でくくりつける作業も時には必要。 でも、それが無理矢理の仮想世界だって認識は、常に抱かなくてはならない。 “アイツが悪いに決まってる、私は正しいに決まってる”って善悪基準で言うなれば、箱の中身は神のみぞ知るところだ。 お前は神か? 万物の絶対王者か? 思い描く常識も、倣い従う普遍とやらも、己が作り出した杓子定規の末と知れ。 裸の王様の能弁は、聞くに耐えない。

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